保土ケ谷区の西で旭区と緑区に隣接した新井町。 保土ケ谷区生涯学級で以前まとめられた
「新井の魅力発見 ~私達のまち・歴史探訪」
から写真を一部再撮影してお届けします。
新井新田
江戸時代、この辺りは徳川幕府の土地(御用林)で山林・草原などの荒れ地でした。神奈川の新井氏が代官として治めていました。江戸時代の終り頃(1751~1764)に当時代官だった新井忠兵衛という人が、幕府からこの土地を買い取り、土地を切り開いて田や畑にしました。それでこのあたりは、「新井新田」と呼ばれるようになりました。
①新井小学校
昭和43年9月創立(横浜市立上菅田小学校西分校として設置)
②ごはん塚(五飯塚 緑区)
鎌倉初期の武将畠山重忠は元久二年六月北条義時勢の攻めに会い武蔵国二俣川に於て討死逃れ来りし残党もこの地で惨殺された。村人達はその霊を慰めるべく五ヵ所に塚を建て懇ろに弔いごはん塚と呼んで花を手向けた。第二次世界大戦中耕地不足の為畑と化しその後団地造成等の変遷をたどり塚四基は姿を消したゞ一基この地に祭祀するのみ
③庚申塚
庚申塔というのは、村に悪い病気などが入り込まないように、人々が祈って建てたものです。1733年(享保18年)に建てられました。
④大けや木
⑤今はない道しるべ
「右ながつた道、左ほどがや道」と書いてありました。長津田から保土ヶ谷駅まで長津田街道が通っていた。
⑥子育て地蔵(一本松)
地蔵菩薩 弥勒菩薩は釈尊に次いで仏として将来この世に現れることが約束されていることから、「未来仏と呼ばれる菩薩。」弥勒菩薩が出現されるまで、衆生を救われる菩薩が地蔵菩薩といわれる。子供の味方お地蔵様。
⑦新井町公園
竹林
新井のお茶 江戸時代の終わり頃、新井忠兵衛により開墾され、新井新田村となり、その土地を借りて黒崎平七が、お茶の栽培を始めた。鈴木政兵衛門の所有となり、お茶の栽培と製茶を始めた。最盛期には、宮内庁御用達、海外輸出品だった。
⑧新井中学校
昭和51年4月創立 大蛇退治の場所と伝えられた場所
⑨集められた石仏
⑩つき山
つき山については諸説ありますが、近くの沢で息絶えていた大蛇(猟師が撃ったという説もあります)の頭部をここに埋めて供養したと伝え聞いております。
⑪新井の弁天様
大正初期に日蓮宗を祀る為に先代が立て、鬼子母神ならびに弁財天もお祀りしております。弁財天については琵琶湖にある竹生島「宝厳寺」に仕える者が訪ねて来られその方の話によると「弁天様が毎夜、夢枕に立たれ私を関東にあるこの地に連れて行ってほしい。」と望まれたので弁天像を背負い訪ね訪ねてやって来られたと言うことです。その後尊像を先代がお預かりしてお祀りしたと伝え聞いております。これらの神仏を拝する清心講などもでき長く親しまれてまいりました。
⑫稲荷神社
江戸時代の終わり頃(1751~1764)に、当時の代官だった新井忠兵衛という人が、幕府からこの土地を買い取り、新井新田ができた時、人々が豊作を願って建てたのが今の稲荷神社だと、『風土記稿』に記されています。
⑬向陽学園
⑭竹林
⑮山の神
山の神とは山霊を人格化した神、山は水源地であり、農業神を山に求めたり、子孫繁栄を願った。
⑯純真学園
国立純真学園 昭和8年開校~昭和13年閉校。伊勢宇治山田へ移転。塾長岡本利吉。牧場・農耕・学科を指導。午前は学科、午後は実習。学園で生産された牛乳は横浜に出荷。現在住宅街になっている。
⑰馬頭観音
⑱六地蔵
六地蔵菩薩 六道で衆生の苦しみを救うという六種の地蔵仏です。安永六年(1772~1780)十二月吉日、雨天、田安という人が建てたものです。
⑲三角点
三角点とは三角測量に用いる際に緯度・標高の基準になる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。三角点の設置・管理は太平洋戦争以前は内閣省地理局を経て陸軍参謀本部陸地測量部が、戦後は国土交通省国土地理院が行っている。
二等三角点・・・設置間隔は8Km 全国に5056点